琉球王朝に薬として献上された金柑などを育てる、名護東海岸の頼もしい兄弟たち。
2019.03.29
あなたが暮らす地域で昔のことを知りたくなったとしたら、誰のところへ話を聞きに行くでしょうか。
名護東海岸にはそんな時に、皆の頭に思い浮かぶ人がいます。
“せいびんさん”と親しまれる、島袋正敏さん。
名護博物館の初代館長であり、山原(やんばる)島酒之会初代会長。沖縄の在来豚・アグーの復活に大きく関わった人としても知られています。
生まれ育った名護東海岸では、ものづくりや、食文化、農、自然、歴史などの学びの場「黙々100年塾 蔓草庵」を主宰。建物のなかは泡盛の資料館にもなっています。
「蔓草庵」は名護東海岸のなかでも最北東、街から遠い天仁屋という集落の隣・底仁屋にあります。現在の人口が50人余りという名護市でいちばん小さい地域です。
でも、農業に携わる若い人は比較的多いというのがおもしろい。
底仁屋で、琉球王朝時代、薬として献上していたという在来のキンカンを残そうとしているのは、せいびんさんの弟で畑人の和則さんです。
農家の先輩が山から苗を持ってきて植えたキンカンの木があるけれど全然実が付かない。なんだかおかしいというわけさ。見に行ったら、木が弱っていてかろうじて生きてる感じ。これは絶滅するなと思って、それがきっかけで増やさないといかなんなと思ったわけ。
「絶滅する…」を目の前にした時に、ぱっと動ける人が世の中にはいるのです。
50年ほど前は、青年会が山の谷間でキンカンの木を管理していたそう。
でも50年前といったら、生活で瀬一杯で誰もキンカンを買う余裕なんてない。収穫して売ってもなかなか金にはならなかった。結果的には放置して山のものは99%枯れてしまった。
シークヮーサーの産地・名護市勝山から種をもらってきて、植え、キンカンを接ぎ木するまでに3、4年。周囲の畑人にも栽培を声かけしながら、今に至ります。
「本土産と何が違うかっていうと、風味が強い。これが薬になるのかな。原種に近い感じだと思う」と言いつつも、成分分析も、販売方法もまだまだこれから。
それでも「残してよかった」と和則さんは力強く話します。
次の世代に引き継いでいくためには手間に引き合う価格で販売できることが必要。その方法をいっしょにつくっていくことをわんさか大浦パークに期待してる。
今の日本から、沖縄本島から見れば、ここは過疎地のひとつとして片付けられるのかもしれません。でも画一的な価値観にとらわれず、多様な知恵がつながっていく素地が残っていることを感じます。
「何でもぼちぼち。いろいろつくったほうが楽しいさ」
さて、名護東海岸の頼もしい兄弟といえば、我那覇兄弟もいます。
沖縄のブランド豚のパイオニアである「我那覇畜産」の我那覇明さんは6人兄弟。明さんが次男で、五男は焼豚屋、六男は肉屋を経営しているそう。
今回訪ねたのは、四男にあたる我那覇剛さんの畑です。野菜と果樹を育てる、兄弟のなかでは異色の存在です。
50歳までは約30年間、沖縄コカ・コーラボトリングの営業マンとして働いていたという我那覇さんの畑歴は約15年。
自己流だからねー。失敗の繰り返し。失敗したら友だちが、これがまずい、ここを直せーって教えてくれるよ。
人にふたつの生涯があるとすれば、定年後の後半生に畑があるという名護東海岸をまずうらやましく感じます。
その上でユーモアいっぱいの我那覇さんの畑では、35種類以上の野菜や果樹が実に楽しげに育っているように見えました。
おじさん、何でも屋ーだからよ。このへんの人はエナジックの工場があるからウッチン(ウコン)の畑が多いんだよ。普通の人はウッチンつくるんだったらウッチンでしょ。こんなしてやってる人は少ない。たいへんはたいへんだけど、いろいろやったほうが楽しいさ。何でもぼちぼち。たくさんじゃない。ウッチンは収穫後にひげとって、分けてがたいへんだから、夜は酒飲まんといかんから(笑)、ウッチンつくる暇ない。
1カ所で畑仕事をつづけるのは「難儀だから」、こっちの畑で草取りをしたら、あっちの畑で立ち仕事。疲れてきたら、我那覇さんは果樹園に向かいます。
アボカド、アセロラ、レモン、ナゴベニ、レイシ、マンゴー、グミ、アテモヤ、ピタンカ、ジャボチカ…。
「わんさか大浦パーク」に35種類の野菜や果樹を登録して卸しているという我那覇さん。一人会社の名は「ガーナ株式会社」です。野菜売り場に来たら、その文字を探してみてください。
また、我那覇さんをはじめ、名護東海岸の畑人が育てたかぼちゃは、スパイスを効かせたかぼちゃカレーパンとしても味わえます。