子どもの時に食べたマコモのおいしさは舌が覚えている。

2019.03.04


内地でマコモダケがブームなのは、現代人が「デトックス効果」をよっぽど必要としているからなのでしょうか。

マコモダケは漢字で書けば真菰筍。筍という字が当てられていますが、マコモはイネ科の植物です。イネとと同じように水辺で育ち、成長した茎の根元に黒穂菌(くろぼきん)が寄生して肥大。膨らんで太くなった茎の部分をマコモダケと呼びます。もし寄生しなければ花が咲き、ワイルドライスに。こちらはインディアンが主食としてきた歴史があるそう。


筍という字が当てられたのは、その肥大した部分がやわらかい筍のような、歯ごたえのあるきのこのような食感だからでしょう。ほのかな甘みをもち、クセはないので素直に幅広く料理できます。


沖縄でマコモダケの特産地といえば、名護東海岸の三原と汀間だったと教えてくれたのは、三原区長の比嘉徳幸さんです。

この辺は全部田んぼだったんですよ。マコモの最盛期は46、7年前くらい。政府が減反政策を打ち出して、農業推進委員の王さんというかたが台湾からマコモを持ってきて植えはじめた。マコモの生産地ということで有名になって、中南部からも4トン車で現金買い付けに来るわけ。各家庭では、裸電球付けて、庭にブルーシートを敷いて、自分なんか子どもたちもいっしょに皮を剥いて、皮一枚残して袋に詰めておく。夜になると業者が来て、量って、現金と交換で持っていくわけ。外灯もない時代に、小さい道にも入ってきて、売ってくださいとこれで商売しようとする人がいっぱいいた。都会では飛ぶように売れたんだろうね。


聞く者の頭のなかに、当時の情景をいきいきとイメージさせていく比嘉さんの語り口。

話はつづきます。

自分たちは手伝いをやることによって親から1ドルとかもらえるとすごい嬉しいわけ。小学2、3年の時は、1ドル持って那覇に行って、バス賃が那覇まで25セント、往復で50セント。映画が25セント。それでスープ付きのBランチが25セント。ちょうど1ドル。小学生だけでは不安だから、10人くらいでいっしょになって行きよった。なんでみんなマコモをつくらなくなったかというと、ブームがきたときに、輸入する人が増えて、価格が5分の1で入ってくるようになったんですよ。

数年前までマコモを育てていたみちこさん。
辞めなかった理由を聞けば「なんでー。田んぼがあるから」


区長になった比嘉さんがマコモを復活させようとプロジェクトを立ち上げたのは、重労働でも「マコモの味がずっと口に残っていて、このおいしさというのを舌が覚えている」からといいます。

いざやってみると、40年以上前の話だから、若い人は興味がないというか知らないんですよ。知っているのはせいぜい50代から。70代になると、苦労もよく知ってるもんだから、飛びついてこない……。

カヌチャリゾート農場管理班の大城道哉さん。
「ターブックヮという昔の田んぼなので、深いんです」


その上、マコモダケは旬が短いのが一番の弱点です。

黒穂菌はマコモダケ全体を真っ黒にしていきます。黒くなったほうがデトックス効果が高まるという研究結果もあるようですが、現地点では見た目で売れなくなってしまいます。

が、この黒マコモダケをすりおろして、島唐辛子と三枚肉のスライスを入れ、スクガラス(アイゴの幼魚の塩漬け)をアンチョビに見立て、黒のペペロンチーノをつくってみた、という比嘉さん。

イネ科だからマコモの味噌や酒をつくるだとか、沖縄の女性は目鼻立ちがはっきりしているから、沖縄マコモのアイシャドウを開発してはどうかなど、アイデアは尽きないようです。


思わず、区長になる前の職業をたずねてみると…

外食産業→実演販売→輸入と行商→ドライブインの料理人→解体屋→鉄鋼の請負会社→居酒屋…途中から数えられなくなりました。

人生を謳歌し、どこにいても兄貴肌でまわりの人に慕われていたことが想像できます。

そんな比嘉さんといっしょに名護東海岸のマコモを復活させようとしているのが、嘉陽区長の翁長信之さんです。

中学の頃、マコモは貴重な存在だったの。嘉陽ではつくれなかったから、三原でつくって特産物にしていたのを、時々食べたら、すごくおいしかった。その味が忘れられなくて。ここにはせっかく水田があるから。あえて畑にはしたくないというか、先祖から預かった田んぼを絶やしたくないからね。山奥に行くともっと水が流れているところがあって、ワサビもどうかなと思ってる。イノシシとケンカしながらやってみようかな。


「田んぼは深くてたいへんで、嫌われている」と憂いながらも、それ以上に愉快そうな二人の区長。

沖縄のマコモダケには、おいしさの他に、ユーモラスな発想をつくる成分が組み込まれているのかも?!